2007年03月30日

飛鳥京跡苑池遺構

飛鳥京苑池イメージ図(奈良県立橿原考古学研究所より許可 転載)

飛鳥時代の大規模な園池跡が奈良県明日香村で見つかり、同県立橿原考古学研究所(橿考研)が発表しました。

天武天皇(在位673〜686年)が即位した飛鳥京(飛鳥淨御原宮)の宮廷庭園である可能性がきわめて高いと思われます。

これまでに見つかっている宮廷庭園は奈良時代のものが最古で平城京東院庭園、今回の「飛鳥京庭園」はさらに数十年さかのぼるといわれています。

数千平方mの広さと見られる池は、底に石が敷き詰められ、流水装置や中島、池に突き出た涼み床が設けられていました。

当時の朝鮮半島の文化の影響を受けて築かれており、日本庭園のルーツと考えられます。

園池跡は飛鳥京跡の北西約100mの空き地で見つかり、天武朝時代の土器片が出土しました。











posted by 明日香 at 21:30 | Comment(23) | TrackBack(2) | 史跡

飛鳥京

「大和は国のまほろば たたなづく青垣
 山ごもれる 大和しうるわし」

ヤマトタケルノミコトが終焉の地(三重県亀山市)で、ふるさと大和を偲んで歌ったとされています。


飛鳥は天香具山から橘寺までの南北3q多武峰と甘樫丘・飛鳥川に囲まれた東西0.7qの小盆地にあります。



飛鳥京跡は高市郡明日香村大字岡に所在する宮殿遺跡です。593年に、推古天皇により、豊浦に移された宮は、小墾田宮に移った後、630年に舒明天皇によって、飛鳥岡本宮に移されます。その後、694年の藤原宮遷都までの間、飛鳥の地に岡本宮板蓋宮後岡本宮浄御原宮が次々に営まれました。

6世紀半ばから7世紀末までのおよそ150年間、ここが倭国の中心であり我が国最初の都でした。

飛鳥の地を舞台にして、大王(おおきみ)が国を一つにまとめ、大陸や朝鮮半島からの渡来人らが優れた文化や技術を伝え、歴史上、名を残した多くの人物を生み出しました。

今は田が広がり,ただひっそりとして四季折々の顔を見せてくれます。
posted by 明日香 at 19:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡

2007年02月22日

纏向遺跡

纏向遺跡は、奈良県桜井市の北部に位置し、北側は天理市と境を接し、烏田川と巻向川に挟まれた扇状地上に広がる、東西2km・南北1.5kmにもおよぶ遺跡で、古墳時代前期(土器編年では、庄内0式期〜布留(ふる)2式期)を主とするものです。

三輪山の麓にある桜井市の巻向地区には、卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳を中心に多くの古墳や遺跡があり、近くの山辺の道には大和朝廷の実質的な創始者とも言われる、崇神天皇陵(行燈山古墳)景行天皇陵(渋谷向山古墳)等もあり、ここが大和朝廷の発祥の地という人もいます。

纒向遺跡には20数基の古墳が存在しますが、このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があります。

中でも、纏向石塚古墳の築造が3世紀前半頃、ホケノ山古墳は3世紀中頃と判定され、日本最古級の古墳群であることがわかっています。

纏向遺跡は、ヤマト王権の最初の都宮であった可能性が高くなったと考えられ、邪馬台国畿内説が推定されるようになってきました。
posted by 明日香 at 01:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史跡

ホケノ山古墳

〜3世紀中頃に前方後円墳!!〜
奈良桜井市のホケノ山古墳で、JR桜井線の巻向駅の東南700mのところにあります。

石囲いの木槨を設けた前方後円墳では例のない埋葬施設と画文帯神獣鏡が見つかりました。(画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡と争って、いわゆる「卑弥呼の鏡」と呼ばれています)

大和古墳調査会では、同古墳が3世紀中頃の築造で最古の前方後円墳であると発表されました。
 

卑弥呼の墓とも呼ばれている箸墓古墳がJR線を挟んで西側にあり、また、近くには、日本最古の都市として知られる纏向遺跡があり、遺跡内には箸墓古墳より先行する巻向石塚古墳も存在します。

初期ヤマト政権の成立にかかわるとされる史跡が多く、大神神社も含めて三輪山の麓を古代の歴史ロマンを抱いて散歩するにふさわしいところです。

出土遺物として、現在までに、中国製の画文帯神獣鏡1面のほか、内行花文鏡・半肉彫表現の鏡の破片若干、素環頭大刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本以上、鉄製農工具など、数多くの副葬品が出土しています。また、棺内には多量の水銀朱がみられます。
posted by 明日香 at 00:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古墳

2007年02月21日

箸墓・倭迹迹日百襲姫尊命陵

O.jpg箸墓古墳 倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵 大市墓(箸大墓)は3世紀中頃の築造であると考えられ、三輪山の麓、纒向遺跡の南端の桜井市大字箸中に所在する全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13mの前方後円墳です。現在は皇陵として宮内庁所管となっている。


周濠幅約10m、後円部に渡り堤を付設、葺石を施し、墳頂部から底部穿孔の二重口縁壷、後円部5段付近から特殊器台形埴輪、特殊壷、特殊円筒埴輪が出土、また周濠部から木製の鋤・手斧の柄等が出土しています。



日本書紀には「昼は人が造り、夜は神が造った」との記述も残っています。しかもこの墓を築造するのに多くの人が大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだといわれています。

この大坂山とは現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と考えられています。

また、邪馬台国の女王・卑弥呼(西暦247年頃死去)の墓との説で特に有名です。

もしこの古墳が卑弥呼の墓であれば、魏志倭人伝が伝える倭の女王国が大和政権の前身であることになり、長年続いた邪馬台国論争も畿内説が有利になります。


箸墓の由来は、日本書紀の中にある話で、孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が大物主神の妻となりましたが、夫である大物主神は昼間姿が見えず、夜にだけ訪れます。

姫は夫に姿を見せてほしいと頼みました。すると翌日、櫛笥(くしの箱)に入った小さな蛇となって現れました。

それを見て姫が驚いた為、大物主命は恥をかかされたと言って三輪山に隠れてしまいました。

姫は後悔して陰部を箸で突いて自殺しました。そこで人々は姫を葬ったこの墓を箸墓と呼ぶようになりました。

posted by 明日香 at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(2) | 天皇陵

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